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必勝、命名・名付けの神 武信稲荷神社☆彡

2016.08.26

坂本龍馬。

言わずもがな、皆さん知ってますよね。

 

日本の偉人の中でもトップクラスの有名な人です。

 

どうも皆さんこんにちは

和婚スタイル大阪店ですヽ(●゚I゚)人(゚I゚●)ノ

 

と、いきなり何で坂本龍馬の話をしたのかと言うと、

今回紹介しようと思っている神社様が

この坂本龍馬と、とても関わりがあるからなんです!(。・・)ノ

 

ここで、歴史好きで得意な方でしたら

分かった方もいると思います。(ブログのタイトル見れば分かりますが…)

 

その神社様はと言うと、「武信稲荷神社」です!(*´σЗ`)σ

 

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なぜ、この神社が坂本龍馬と関係があるのかと言うと、

坂本龍馬とおりょうがこの武信稲荷神社で再会することができたと言われているのですo(>ω<*)o

 

では、もう少し詳しく書いていきましょう

 

武信稲荷神社は、武信稲荷神社は、京都府京都市中京区にある神社。

必勝、命名、名付けに利益がある神社で、

 

御由緒は、平安時代の初期、清和天皇貞観元年(859年)2月、西三条大臣といわれた右大臣左近衛大将藤原良相(ふじわらのよしすけ)公によって創祀された御社であります。
平安時代の古図には、三条から南の神社付近一帯の広い地域は「この地、藤原氏延命院の地なり」と記されています。延命院とは藤原右大臣が、人々の健康長寿を願って創設した医療施設であり、延命院と勧学院(現千本三条東、西ノ京勧学院町にあった学問所)の守護神としてお祀りした神社であります。
平安京の大内裏は、今の千本丸太町を中心としたところであり現在の千本通りが朱雀大路にあたり、神社付近は貴族の邸宅や平安京の中央諸官庁があった地域です。
後世、藤原武信という方がこの御社を厚く信仰し、御神威の発揚につとめたので、武信稲荷と称されるようになり、創祀以来一千年余にわたり広く人々に信仰されて今日に及んでいます。
また創祀された藤原良相公が長として一族の名付けをされていたことから、名付け・命名に所縁の神社として知られています。

 

御神威・御神徳は、稲荷大神への信仰は、我々日本人がもつ最も代表的、普遍的な信仰であり、人間の最も大切な生命に対する望願であり祈願であります。

 

人間をはじめ万物の生命が生れ成育するのは、この大自然、大宇宙に人智を超えた神秘な力が存在することによるものであり、その無限の生命力を稲荷大神の御神威お恵みとして信仰するのが稲荷信仰であります。
武信稲荷大神は生命(身体・健康)精神(心)生産(農業・工業)生業(事業商売・職業)生活(家庭・暮らし)をはじめ人間生活の全てを守護される神であります。

 

稲荷大神は、古くは命を養うもとであるお米をはじめ、農作物の神としてお祀りされていましたが、社会が進歩発展し文化が振興し、商工業が盛んになるにつれて、産業守護神、商売繁昌の神、学術技芸の神としても信仰されるようになりました。

 

武信稲荷神社は、その御創祀のはじめからして暮らし、健康をまもられる神としての信仰が厚く、家内安全、健康長寿、病気平癒、交通安全、火難、盗難などにとくに大きな御加護、御利益を授け賜うのであります。

 

なお稲荷山の二の峰、荒神峰、剣石、薬力等にお塚としてもお祀りされているそうです。

 

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ではここからは、本題である坂本龍馬とおりょうが再会を果たした経緯を

書いていこうと思います。

 

武信稲荷神社の榎(エノキ)
その一本で森の風格がある。京都市天然記念物に指定されている榎は高さ 23メートル、胸高幹周り4メートル。

 

コケのむす幹は九つに分かれ、四方に大きく枝を伸ばす。 樹冠は東西22メートル、南北26メートルにも及ぶ。

 

附近の壬生(昔は水生といった)という地名からもうかがえるように、たっぷりと水を含んだ地盤が木を豊に育んだ。樹齢は約850年。平安時代末期、平重盛が安芸の宮島厳島神社から苗木を 移したと伝えられている。

 

弁財天が宿るといわれる榎の神木。その樹齢800年を超える生命力とエネルギーは健康と長寿の神として、 信仰を集めている。木にふれた手で体をさすると病気が治るといわれているため、木のエネルギーを感じ、 わけてもらおうと、幹に手をあてる参拝者も多い。

 

また、榎は「えんの木」とも読まれ、御神木の榎に宿る弁財天を祀る末社の「宮姫社」は縁結び、恋愛の神としても知られる。昔はお見合いの席もそうはなかった ため、当社の社務所でお見合いもおこなわれていたそうです。

 

また、御社の南には江戸時代、幕府直轄の六角獄舎があり、幕末、勤王の志士が多数収容されて

その中に 坂本竜馬の恋人おりょうの父が勤王家の医師であった ため捕らえられていたらしく、先に様子を見にきた竜馬は、後に訪ねてくるであろうおりょう への伝言に榎の幹に「龍」の字を彫ったとつたえられているんです

 

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そして、坂本龍馬とおりょうのメインストーリーが

 

武信稲荷神社は貞観元年(859年)に創祀されて以来約千百年を経て現在に至ります。その長い間にはさまざまな話しが伝わっています。そのうちの一つが江戸時代末期の坂本龍馬とおりょうの逸話です。

 

神社の南には江戸時代、幕府直轄の六角獄舎という牢獄があり幕末、勤王の志士が多数収容されていた。その中に 坂本龍馬の妻おりょうの父である楢崎将作(ならさきしょうさく)が勤王家の医師であったため捕らえられていた。

 
おりょうは父の身を案じ龍馬と共に何度か訪れるが、当時女性が牢獄へ面会できることもなく龍馬自身も狙われる身であり面会はかなわない。その為、神社の大木の上から様子を探ったという。

 

その後命を狙われ追われる龍馬は身を隠し二人は離れることとなる。おりょうは龍馬の身を案じ行方を捜していた。そんなおり二人で何度も訪れた武信稲荷神社の榎をふと思い出し訪れた。するとそこには龍馬独特の字で『龍』の字が彫ってあったという。

 

自分は今も生きている。そして京都にいるのだ。そういう龍馬からの伝言であった。
龍馬が京都にいることを知ったおりょうは二人の共通の知人を訪ね、それにより二人は再び出会えたという。

 

龍馬とおりょうの出合いに関しては諸説ある。また英雄坂本龍馬を題材にした小説などももっとも有名な司馬遼太郎氏「竜馬がゆく」をはじめたくさんあり、その中での二人の出会いもさまざまである。

 

龍馬とおりょうの出合いは父楢崎将作の死後という説もあり、将作は安政の大獄により六角獄舎に投獄されそのまま獄中で病死している。将作の死後に一家が生活に困りおりょうは一家を養うために旅館で働くようになりそのころに龍馬と出会ったというものである。

 

一方、龍馬研究家であり幕末の歴史研究家の方は、将作は勤皇の志士を厚く支援しており、柳馬場三条にあった屋敷には勤皇の志士が絶えず出入りしていたという。龍馬もそんな将作と親交ができ、その長女であるおりょうと出会った。と結論つける。
この大木に伝わる逸話と一致する。

 

この話しに登場する御神木の榎(えのき)は樹齢約850年。その生命力から健康長寿の信仰が厚い。また榎は「縁の木(えんのき)」とも読まれ、御神木の榎に宿る弁財天を祀る末社の「宮姫社」は縁結び、恋愛の神としても知られる。毎日その力をいただきたいと木の幹に手をあてる参拝者も多い。
龍馬とおりょうもそんな縁結びの力を授かった二人である。

 

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といった物語があったらしいです!

この武信稲荷神社は、とても面白い歴史のある神社となっています

少しでも興味を持ってもらえたら、ぜひ1度足を運んでみてください♪

 

簡単ですが、武信稲荷神社の説明を終わりにしたいと思います。

少しでも興味を持ってもらえたらと思い、今回神社のお話をいたしました。

 

 

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